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「マッチ売りの少女」を久々に読んで
皆さん、子供の頃に1回は「マッチ売りの少女」というアンデルセンの童話を読んだことがあるのではないでしょうか?この本が生まれてから殿くらいの年月が経ったかわかりませんが、この前、図書館でこの本を見て懐かしさから借りて子供に読み聞かせをしてみました。
皆さんや、みなオジが知っている「マッチ売りの少女」のあらすじは、こんな感じではなかったでしょうか?
大晦日の夜。マッチ売りの少女はお腹を空かせながらマッチを売り歩くが、誰も買ってくれない。 馬車にひかれそうになり、さらには、脱げた靴を少年に盗られてしまう。身も心も疲れ果てた少女は、路地裏に座り込む。 少女は寒くてたまらなくなり、マッチをつけた。マッチの炎の中に、少女が欲しくてたまらない物が、次々と浮かび上がっては消えていく。 マッチに火をつけるうちに、今度は亡き祖母の幻影が現れた。マッチの炎が消えると祖母も消えてしまうことを恐れた少女は、慌てて持っていたマッチ全てに火を付けた。祖母の姿は明るい光に包まれ、少女を優しく抱きしめながら天国へと昇っていった。 翌朝、少女は雪の上に横たわって亡くなっていた。少女の周りにはマッチの燃えカスが散らばっていた。 |
アンデルセンが伝えたかった事とは?
この童話の中で、作者のアンデルセンが伝えたかったことは何だったのでしょうか?子供の時のみなオジは、かわいそうな女の子の話というところで終わっており、それ以上の感想というものはありませんでした。一説には、作者であるアンデルセンは、「貧困から逃れる術は、死以外にはないのだ」というこの世の無情をこの童話を通じて当時の為政者に伝えることで、弱者にも配慮した政治が行われる事を願ったのではないかと言われています。
ストーリーが違う??
数十年の時を経て子供に自分が読んでいた童話を読み聞かせするのは、感慨深いなと思いながら読んでいくと、何か違和感が…あれ?なんか話が違う??自分が子供の時に読んだマッチ売りの少女では、誰もマッチを買ってくれなかったはずなんだが、この本では知らないおじさんがマッチを買おうとしている?!
ここまで読んで、表紙を見返して気づきました。「作者、違う(アンデルセンじゃない)じゃん!!日本人じゃん!」そうです、これは「マッチ売りの少女」のオマージュ童話だったのです。
「マッチ売りの少女」ではなく、「マッチ屋の少女」
あー、そういう事か。子供への読み聞かせ中なので、流れを止めないように何事も無かったように読み進めました。読み進めるとストーリーは次のように進みます。
見知らぬおじさんは、一度はマッチを買おうとお金を差し出しましたが、少し考え、次の様に言いました。「お嬢さん、このマッチのいいところを、おしえてもらえんかね。そうしたら、マッチを一つ買うことにしよう」
原作と違う点① タダでは助けない
いきなりの課題提案。タダでは助けないよ、いう事です。優しいおじさんではありますが、まずは「公助・共助」の前に「自助」(自社商品の研究)を行うべしという事をビシッと少女に突きつけるのです。
原作と違う点② 経営者へのススメ
少女は戸惑いながらも、商品のマッチの良いところをひねり出していきます。こうして少女のマッチ販売のプレゼンに満足したおじさんは、約束通りマッチを買っていくのです。ですが、ここで物語は終わりません。その後マッチ売りの少女は、おじさんとのやり取りで身に着けたプレゼン能力にマーケティング戦略も身に付け、何と自分のマッチ屋をオープンさせるという荒業をやってのけるのでした。
「マッチ売りの少女は、マッチ屋の少女になりました。」もはや、この絵本は自分が子供の時に読んだ、悲しく、少し後味の悪い「マッチ売りの少女」の物語ではありませんでした。
2冊を読み比べて感じた事
アンデルセンと「マッチ屋の少女」の作者の共通の想いはどちらも「世の中から貧困が無くなりますように」という事なのですが、そのアプローチはそれぞれの作品で全く異なります。アンデルセンの書くマッチ売りの少女は、ただの社会的弱者として描かれているのですが、「マッチ屋の少女」の作者はこのような社会的弱者に対して生きる術(きっかけ)を与えたというところが、一番異なる点ではないでしょうか。つまり、アンデルセンの童話に感銘を受けた為政者は、貧困者層に「施し」を与えたかもしれませんが、その施しは一時的なものに過ぎません。結局、彼らは一時の飢えをしのいでも、再び同じ状況になってしまうでしょう。これでは、問題が終局的に解決したとは言えません。
しかし、後者ではマッチ売りの少女にマッチの売り方(つまり、「生きる術」を与える事)を学ばせることで、社会的弱者は貧困から抜け出すきっかけを持つようになります。もちろん、生きる術を学ぶために、彼らも一定の努力を行う必要はあるのですが。
後者の考えには、みなオジも全く賛同するところでして、仮に知り合いや身内で困っている人がいても、彼らのために安易にお金を渡すのを躊躇ってしまうタイプです。かえって、一度お金などの援助を行うと、与えられた側もそれに慣れてしまって努力を怠る、もしくはもらう事が当たり前と考えてしまうという不利益のスパイラルに陥り、結局のところ彼らのためにならないのです。
生きる術を与える事の重要性
お腹を空かしている人に魚をあげてもすぐに食べてしまって、次の日再び腹を減らすことになってしまうので、ある意味無責任と言えるでしょう。本当に彼らを助けたいと思うならば、彼らに渡すべきは魚ではなく、魚の釣り方を教えてあげる必要があるのです。(勿論、天災や不可抗力的な理由で予想しえない損害やトラブルがあった場合は、困窮者に対して直接的な支援・援助が必要ですが、その場合は国や自治体等の「公助」、友人や近隣住民の支援者による「共助」が、それぞれの領域で役割を果たしていくべきと考えます。)
従業員(サラリーマン)からの脱却
また、最後にマッチ売りという「労働者」から、マッチ屋という「個人事業主」そして最終的に店舗を構えた「会社経営者」に転身させているところも意義があると思います。そもそも、マッチ売りの少女は未成年で、しかも大みそかの真夜中という労働基準法を全く無視した過酷な環境で搾取されている存在です。この様な状況では、貧困から抜け出せるきっかけすら無かったと思われます。しかし、マッチの商品特性を理解しそれを購買者層に正しくアピールする術を得たことにより、ブラック企業から足抜けする事に成功し、見事独立を果たし、最終的には自分の店(会社)を経営することに成功しました。あー、何か聞いたことのある展開だなーって、これ
私のバイブル「金持ち父さん、貧乏父さん」の影響じゃないですか!!
この手の啓発本って、知らない間に対象が低年齢化していたんですね~。子供向けの絵本なので、理屈までは伝わらないと思いますが、①「自助努力の大切さ」と②「労働者からの脱却」転じて「時間的・経済的自由の手に入れ方」つまり、サラリーマンだけが働き方ではないですよ、という気付きを感覚的に得られる絵本ではないかと思います。
また、前回のトピック「【資格】ファイナンシャルプランナー(FP)について考える」の中で、マネーリテラシーの大切さと、その授業を小学校の「道徳」の授業のように義務教育の中いカリキュラムとして取り入れるべきだという話をしましたが、このような本を(国語の教材としてでも良いので)取り入れて欲しいな、と思います。
童話も「キャッシュフロー・クワドラント」を意識して読む時代に
「金持ち父さん、貧乏父さん」を読んだことがある人は見た図だと思いますが、世の中の働き方(人間)を4つに分けたものをロバート・キヨサキは「キャッシュフロー・クワドラント」と呼んで、あらゆる自由を手に入れたいなら、図表の右側に行くべきだとし主張しています。
これは価値観の問題ですので、どのクワドラントが正しいとか間違っているというものではありません。その証拠に、下記の金銭的価値観が各クワドラントに示されています。
E(従業員)「安全」
S(自営業)「独立」
B(ビジネスオーナー)「富の形成」
I(投資家)「経済的自由」
従業員、自営業者にも「安全」「独立」といった恩恵・メリットがあります。人によっては、薄給でも毎月決まった金額が振り込まれるという安定感を求めることもあると思います。(実際のところ、サラリーマンだから「安全」、「安定」とは言えないのですが…)
かくして、大みそかの寒空の外で労働基準法を無視した長時間労働で働かされていた「マッチ売りの少女」は、今後は「マッチ屋の少女」として、暖かい店舗の中で、順調に事業を拡充するのでしょう。更にマーケティングを学び、消費動向をリサーチすることで、マッチの次はタバコ・葉巻・パイプなどの喫煙具や電子タバコ販売、はたまたこれらのオンラインセールスのためにホームページを開設し、更なる新規事業にも手を広げるかもしれませんね。この本を読み聞かせた我が家の子供にも、「キャッシュフロー・クワドラント」の理解とまではいかずとも、何らかの印象を残してくれればいいなと思います。