皆さんは失敗してますか?巷では日本は失敗できない国、失敗を許容できない風土があるといわれています。
私も過去のブログで新卒時の会社選びは絶対にしくじるな!といった記憶もありますが、自分自身は失敗したとしても何とかリカバリーする事は出来ました。確かに余計な労力を費やして我ながら回り位置したなぁと思い返すこともしばしばですが、結果としてこの回り道があったからこそ、現在の充実した生活に繋がっていると思いますし、若い頃にやっちまった失敗を繰り返さないようにと肝に銘じているとも言えます。
関連過去ブログ:人生の罠について(学生~就職編)は→コチラ
絶対に失敗するなとか、失敗してもいいじゃないとか、やや矛盾した感じに思えるかも知れません。確かにみなオジ自身の経験は結果論に過ぎないかもしれませんが、現実には失敗しない人生を送る方が難しい訳で、どうせ失敗するなら若い頃にやっておいた方が良いのではないかと思うのです。そこで、今回は失敗から学ぶ事の重要性について書いていきます。
目次
失敗も「経験」
失敗経験も間違いなく経験であるというのは「経験工学」的なアプローチから使われる言葉です。経験工学とは「経験の蓄積と継承によって、機能性、安全性、利便性などを高めていく工学の手法」(引用元:小学館「デジタル大辞泉」)を指します。
土木技術の発展はテクノロジーの進化やIT技術以上に、失敗を含む経験則に依る所が大きいと言われています。ここで経験則というと何となく耳障りの良い言葉に聞こえますが、平たく言ってしまえば事故や先人達の犠牲の蓄積なのです。土木工事では数多くの失敗と最悪その失敗から犠牲者を生み出しましたが、先人の犠牲があったからこそ、現在の氾濫を抑え込む治水工事が進化したわけです。
要するに失敗することでしか学べない物にこそ非常に価値があるのです。逆に言えば、大勢に影響を及ぼさない範囲であれば、「敢えてリスキーな行動を取ってみる」という事も時には意味があるのではないかと思うのです。
ケンカで学ぶこと
例えば「金持ち喧嘩せず」という言葉もある様に、一般的にはケンカはなるべくしない方が良いと言われています。「金持ち喧嘩せず」は金持ちや地位の高い人がケンカしても得る物は少なく、むしろ失う物の方が多いという格言ですが、逆に言えば金持ちになる前にケンカの経験を積んでおいた方が良いと言えるのではないでしょうか?
皆さんも基本的にはケンカは避けるべきものだと刷り込まれているかもしれませんが、だからと言って権利を侵害された場合や意見が対立した時にやられっぱなしでいると、更に状況が悪化する可能性があります。例えば、誰かから自分の名誉を傷つけられた時、仕方ない、揉めたくないからと反論もせずにいると、相手の主張が通ってしまいかねません。ですから、場合によっては逃げずに対抗(主張)する事も重要なのです。
ケンカをしなければ効率的な殴り方(手加減の方法含む)も学ぶことができませんし、相手の出方やケンカそのものの終わらせ方(退き時、もしくは犠牲の少ない負け方)も分かりません。
もちろんケンカなどしないに越したことは無いですし、「君子危うきに近寄るべからず」を否定する訳ではありません。しかし、現実社会を見渡すと清廉潔白な人間よりも清濁併せ持った人間の方が経験豊富で深みがありますし、将来第三者の争いの仲裁や裁判外の和解の仲立ちを依頼された場合に過去の修羅場をくぐった経験がモノを言う場面がきっとあるでしょう。
実際のところ、修羅場を知らない人間が提示する和解案はどこか理想論的で実効性に欠けているもので、そんな仲介者の下では双方同意に至らない事でしょう。
ブラック企業にも立つ鳥後を濁さず?
失敗を経験する大切さは個人間だけではなく対会社関係でも当てはまります。例えば、会社を退職する際、皆さんは「立つ鳥後を濁さずの精神」できちんと引継ぎの準備を整えて円満退社した方が良いと考えるでしょう。(転職エージェントのホームページ等で彼らが円満退社を強く推奨するのは、転職エージェントが無駄な争いに巻き込まれたくないという「ただのポジショントーク」です)
退職時に波風を立てない事で自身もストレスなく辞める事ができ、退職後も古巣と良好な関係性が維持され、場合によっては何かの折に仕事を振ってもらったりするかも知れません。露骨にその見返りを期待する訳ではないでしょうが、「後任者が決まるまで…」とついつい退職日の先延ばしに応諾したり、退職後も無償で引継ぎのフォローをして欲しい等の無理難題を引き受けてしまう事があるのではないかと思います。
自己の経験上、円満退社しなくても、元会社の同僚とのプライベートな関係性が壊れる事はありませんでしたし、その会社がいわゆるブラック企業だった場合など今後の関係性を継続させるメリットが1㎜も無い相手であれば、何か意にそぐわない事があった時は敢えて揉めてみるというのも選択肢の一つと考えます。
現在勤務中の会社であれば、その会社と揉めるというのはあまりにリスクの高い行為ですが、辞めると決めた会社であれば揉めること自体リスクは限定的ですし、組織内で揉めたことがあるという修羅場は非常に貴重な実体験として自身の成長を促す事でしょう。
残業代未払を例に
例えば、その会社が従業員に対し長年サービス残業を強いる様な会社だった場合、これまでの残業代を泣き寝入りするのではなく、未払給与として退職時に請求しても良いと思います(ケンカを推奨する訳ではないので悪しからず)。
申し訳なかったと素直に割増賃金を払ってくれるかも知れませんし、開き直ったり何らかの理由を付けて支払いを拒否する会社もあるでしょう。払ってくれればきちんと主張してみるものだという成功体験になりますし、支払いを拒否された場合であっても、その後裁判等で割増賃金を勝ち取ることができたならばそれも貴重な経験となるでしょうし、仮に裁判で負けてしまった場合であっても今後どのような証拠を押さえておけば残業代請求できるのかという戦い方が分かり、今後同じ轍を踏むことは無くなるでしょう。どちらに転んでも、ここで揉めた経験は非常に有意義なものになると思います。
また、退職のきっかけがパワハラ・セクハラだった場合にも関わらず律義に引継ぎまでして退職する人がいますが、この様な場合であれば退職代行会社を使ってこれ以上ストレスを溜めないというのも立派な対抗手段となるでしょうし、リストラされた場合は労働ユニオンに駆け込むなどして「地位保全と賃金の仮払いを求める仮処分」を裁判所に求めるという手段も検討すべきと思います。
もちろん裁判したからと言って必ずしも勝てる訳ではありませんし、勝っても掛けた時間と労力の割に得る物は少ないという事も少なく精神的な疲弊の方が大きくなるかもしれません。それでも今後同様の事があった時の判断基準に活かされる事となりますし、大きな相手に自己の権利を主張できたという自信にもつながるでしょう。当然古巣との関係は悪化するでしょうが、その後の人生に影響がないという事が分かれば、これからは遠慮や我慢もほどほどにしようと、自身の社畜根性を見直すきっかけになるはずです。(そもそも、こういった手段を取らなければ相手方はこちら側の不満をずっと認識しなかったかも知れません。相手方に自分の怒りを認識させただけでも十分に意味のある行動と思います。)
上記例の様にケンカする事で得る経験は多く、「やっぱりケンカはしない方が良い」という発見(反省か?)も含めて自分自身の糧となるのです。特に日本では自分を押し殺してでも組織やその長に従属すべきという社畜意識が強いですが、この様な経験を通じてこういった固定観念から逃れるきっかけにもなる事でしょう。
戦国時代のエピソードになるのですが、若い武将が戦争で隣国を侵略した後、自身の領地とした東の村では略奪・虐殺等非道な手段で圧政を敷いた一方、西の村では施しを与え懐柔政策を取りました。
後年、この武将が「なぜこの様に両極端な対応をしたのか」と子どもから質問された際、「もしかすると圧政で恐怖を与えた方が短期間で領民を従属させられるのではないかと考え、どちらが正しい道か実践してみた。もちろん今では、どちらが正しい道かわかっている。」と答えたというのです。
もちろん現在では略奪虐殺の様な非人道的な行動は許されるものでは無いですし、戦争下という非日常的な時代背景を単純比較する気もありません。例えば、経営不振に陥った社長が社員をリストラした経験は経営者として失敗かも知れませんが、首切りを断行した経験をしたことで長期的には会社を立て直し、残りの社員の幸せに出来ればその過ちも意味があったのだと考えられる事でしょう。
さいごに
現代の日本では、とある「暴露系ユーチューバー」が色々な人に攻撃を加えています。彼はYouTubeの動画配信内で一定数のコアなファンの心を掴み、なんと国会議員に当選してしまいました。
みんなと仲良くしようという日本において、全方位に攻撃(秘密の暴露)して敵を作り続けるという、これまでの常識を覆す手法を続けた後に果たしてどの様な結末になるのかというのは、先に挙げた戦国時代のケースに重なるところがあり個人的に興味を覚えます。(もともとYouTubeでは、台本のあるケンカを行い双方の演者の再生数を伸ばすという「プロレス」が横行していますが、彼の場合はガチの殴り合いです…)
彼の行動は自分自身で経験するにはあまりにもリスクが高い行動ですが、それ故に最高の経験工学のテキストとなるのではないかと思います。